
「本なんか読まなくたって死にゃしない」
おっしゃるとおり。本を読まなくても、自分は死んだりしません。でも、そのせいで、誰かを傷つけたり殺したりする可能性はあるんです。
ためしに、ジョージ・ソーンダーズの『短くて恐ろしいフィルの時代』を読んでみてください。
〈《内ホーナー国》の小ささときたら、国民が一度に一人しか入れなくて、残りの六人は《内ホーナー国》を取り囲んでいる《外ホーナー国》の領土内に小さくなって立ち、自分の国に住む順番を待っていなければならないほどだった〉
そんな哀れな境遇の内ホーナー人に、国土の縮小化というさらなる不幸が襲います。結果、体が外ホーナー国側にはみだしてしまい、フィルという底意地の悪い外ホーナー人の主張によって、税金を取られることに。
機械と有機体が複雑に合体してできあがっている風貌のホーナー人の中でも、フィルはとりわけ変わっていて、脳が巨大なスライド・ラックにボルトで固定されているんですけど、それが時々はずれては勢いよく地面に落ちてしまいます。
そんな時のフィルはとても危険。熱狂的な口調によって民衆を煽り立てるデマゴーグと化してしまうからです。やがて独裁者然とふるまうようになったフィルは、
払うお金がなくなった内ホーナー人から小さなリンゴの木、小川、土、洋服まで奪い、さらには──。 以上の粗筋を読んだだけでも、
『短くて恐ろしいフィルの時代』が、ナチスやスターリニズム、南アフリカのアパルトヘイト、ジェノサイドの謂(いい)だということがわかりますよね。でも、ここに描かれているのはそんな直接的な寓意だけじゃないんです。
フィルや彼に追随する者たちがなす怖ろしい所業が、実は微笑みや哄笑を伴う、チャーミングだったりユーモラスだったりするエピソードとイコールで結ばれてしまう。
つまり、悪の無邪気さを描いているのがこの小説の凄みなんです。こんなに面白いのに、こんなに恐ろしい。これは出色にして異色の寓話です。 で、わたしは思うのです。
この小説を読んでいて、なお、ひとはヘイト・スピーチなどするものだろうか、と。 2011年9月11日、アメリカ同時多発テロの後、世界に蔓延した相互不信の空気も思い出します。
無・理解ではなく、想像力の欠如による非・理解。理解することの拒絶。 アメリカ軍によるイラク攻撃のさなか、武装ゲリラが取材やボランティア活動をしていた日本人男女を拉致監禁し、
多額の身代金を我が国に要求してきた時、時の首相の小泉純一郎や多くの国民が「迷惑をかけるな」と批判しました。空爆で家や肉親を失ったイラクの人たちの映像を安全なお茶の間で見て
「かわいそー」なんて安易な同情を寄せるだけの“わたしたち”が、現地でその真実を取材しようとしたり、困っている人の助けになろうと奔走し、結果、不可抗力で武装ゲリラに囚われてしまった彼らのことを冷ややかに拒絶する。
そこには、想像力のかけらも見いだせません。 「なぜ本を読むのか」と訊かれれば、多くの人が「楽しいから」と答えるでしょう。そのとおり。わたしたちは楽しいから読書しているのです。
でも、その楽しさには、物語の面白さや登場人物に対する共感だけでなく、いろいろな要素があるように思います。そのひとつが他者との遭遇です。 わたしたちは普段小さな檻の中に閉じこめられている、
あるいは自ら閉じこもっている存在です。与えられた肉体であり、置かれた境遇であり、無知による狭量な思考でありといった小さな檻に閉じこめられている精神が、本の中にある今ではない何時か、
此処とはちがう何処か、自分とは違う誰かに遭遇することで、一瞬かもしれないけれど開かれた外部へと飛び出していける。本を読むことによって、なじみのない常識や習慣を知り、異なる価値観で行動する他者と出会い、
自分の中にある狭いものの見方や決めつけや偏見を思い知らされる。その経験の繰り返しで自然と育っていく想像力こそが、読書がわたしたちに贈ってくれるギフトだと思うのです。
「本なんか読まなくたって死にゃしない」 おっしゃるとおり。本を読まなくても、あなたは死んだりしません。
でも、他者に想いを馳せる想像力を培わなかったせいで、偏見を偏見と自覚できなかったせいで、誰かを傷つけたり殺したりする可能性はあるんです。たしかに、あるのです。

豊崎由美

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- なぜ、わたしは本を読むのか - 2016年10月31日